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  このページのニュースは、海外協会の会員向け会報に掲載されたものから一部を抜粋して掲載しています。
 

海外報ニュース
愛媛県海外協会報ニュースアーカイブ
2010年6月30日発行 海外報 第260号から   海外報最新ニュースへ 過去記事一覧リストへ
ロス訪問や研修生受け入れ   新たな前進誓い通常総会

  愛媛県海外協会の第28回通常総会は6月21日、松山市内で開き平成22年度の事業計画や新しい役員体制を決めた。記念講演ではカナダ日系人作家のジョイ・コガワ氏が180人の聴衆を前に「苦難の時代を生き抜いた日系人」の題で講演、実父で牧師だった故中山吾一氏の思い出や、父のふるさと大洲市蔵川のことなどについて語り、感銘を与えた。
  総会には70人の会員が出席。井上善一協会長は、開会あいさつのなかで「昨年度は新たに個人会員制度を設けた。お陰で個人会員は100人を超え、厳しいなかにも組織力は上向きに転じた。『海を越えてふるさとの絆』の合言葉のもと、手を携え力強く歩んでいこう」と呼びかけた。在伯県人会長の藤原利貞氏も駆けつけ、協会活動に熱いエールを送った。
  22年度の事業方針では、(1)「北針シンポジウム 異文化を越えて」の開催(5月22日に既実施、八幡浜) (2)南加県人会創立100周年式典へ県民訪問団の派遣(7月31日〜8月7日) (3)第6期ブラジル研修生の受け入れ(10月)(4)第5回会長杯ゴルフコンペの開催(5)いもたき交流の夕べ(11月)(6)大使館公邸料理人による料理教室(12月)(7)地区会の開催(2〜3月、西条、今治、八幡浜、今治)−などの中心事業を決めた。
  役員改選では、新副会長として中山紘治郎氏(愛媛銀行頭取)を選任したほか、新理事4氏、新監事2氏を含む議案が承認された。

熱気包んだ八幡浜・北針シンポジウム
▼真穴に垣間見る おおらか民衆史 村川庸子教授 講演要旨
「八幡浜は第二の故郷」と切り
出し歯切れよく話す村川教授
 南加県人会100周年に呼応し海外協会が5月22日、八幡浜商工会館で開いた「北針シンポジウム 異文化を越えて」は160人の聴衆が詰め掛け会場を熱気で包んだ。北米移民研究者の村川庸子敬愛大学教授が「アメリカ移民の過去・現在・未来」の題で歯切れよく話しかければ、後を受けたパネル討論でも3人のパネラーが異文化交流の素晴らしさについて伸びやかに思いのほどを語った。
  千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館があります。現代史のコーナーが新設され、私の担当で「アメリカに渡った人々と戦争の時代」展をやっている。強制収容の歴史なども展示している。そこには日系人が差別された話があり、ともすれば見る人は「かわいそう」「アメリカ人はひどい」で終わってしまう。しかし、人々は毎日そういう思いで暮らしていたわけではない。普通の人々の暮らしは、怒ったり不平を言ったりしながらも、そんなに大変とは感じず暮らしていたと思う。戦時中、日本にいたらもっとよかったか、というと、そうでもない。歴史にはありふれたことは残らない。本とか展示とかと、生活実感は違う。
  私の祖父母はアメリカ移民だった。アリゾナに20年以上行っていたようだ。祖父母の元気のいい話と、大学で聞かされた移民の生活はあまりにかけ離れていた。偉い人のつむぐ歴史と、一般の人々の感覚はかなり違う。そう思うようになり、民衆史を目指すようになった。決定的になったのは、ここ八幡浜の真穴を訪ねたときからだった。海辺にたたずむ男性に尋ねると「オー、わしらも行ったよ」「そうよ、密航よ」という答えが返ってきた。
  打瀬船と呼ばれる移民船を見て、その小ささに驚いた。90日以上もかけて命がけで着いても見つかれば、捕まって送還される。それでもアメリカを目指す理由を知りたいと思った。
  アジア人がアメリカに移住したのは1849年にカリフォルニアで起きたゴールドラッシュのころから。それが収まった後も西海岸と東部をつなぐ大陸横断鉄道の建設のため中国人が多く移住していった。鉄道が完成すると人手が要らなくなり1882年には「中国人移民排斥法」ができた。その穴埋めとして日本人の移民が受け入れられるようになった。

会場を埋めた160人の聴衆
  最初は歓迎されていた。しかし、1905年に日露戦争が終わると様子が変わってきた。開国50年足らずで、日清、日露戦争に勝った小国に対して警戒心を持つようになってきた。次々と法律をつくり、移民が制限され、市民権も制限されて、日本人は住み続けられなくなった。1941年の真珠湾攻撃により、日本人、日系人は西海岸から立ち退きを命じられ強制収容される時代となる。
  12万人の日系人は(うち7万5千人は二世だが)内陸部の10カ所の強制収容所に入れられることになった。2世は市民権を持っていたが、これが無視された。米国に忠誠を誓わない者は市民権を放棄させ、強制送還の対象とした。同じ敵国であるドイツやイタリアの移民に対してはこのような措置はなかったのだから有色人種に対する差別とも言える。
  やがて、1990年代になって強制収容に対する補償(リドレス)が行われることになる。さすが民主主義の国といえるが、「9・11」の後で同じことが起きているという点に留意したい。アラブ系の人たちへの予防拘束が広く行われた。
  最後に、移民の現在と未来について述べておきたい。日系人は他民族よりも同化が速く進んでいる。日本人であることを目立たせないよう生きてきた。でも、最近は、これまでの反動で「日本回帰」のような現象もある。消え行く日本人街の中の意識も変わっていっている。歴博の移民展は来年3月まで開いている。千葉は遠方ですが、ぜひ見にきていただきたい。

▼パネル討論から
 

  松浦有毅「北針」会長 明治12年に西井久八翁が渡米に成功し、その10年後に一度帰ってきた。そのとき、八幡浜にはアメリカの風が吹き、若者たちが次々西海岸を目指した。90日間も困難な航海を乗り越えていった。すさまじいエネルギーとロマンを地域の誇りとして語り継ぎたい。その思いで仲間で「北針の会」をおこした。出航地と上陸地のポイント・アリーナに碑を建てた。地域の行事や学校にも出向き、子供たちに語り伝えている。

   菊池秀夫・訪伯研修生OB 八幡浜で柑橘農家を営んでいる。平成9年に始まった第1回ブラジル研修生として訪伯したのが海外協会との出会いだった。その後、平成20年にも日伯地域リーダー交流に団長として参加し、全国の青年たちとともに交流を深めた。また、20歳のときには派米農業研修生として2年間アメリカで実習した。このほか、欧州や豪州でも研修を積む機会に恵まれた。これらの経験が八幡浜で生き続ける確信を持たせてくれた。言葉は完全でなくとも熱意さえあれば通じるということだ。日本の文化が心のよりどころとなっているから外国の文化も受け入れ尊重することができる。

 バージン・ルース愛媛大学准教授 日本に来て35年になる。その前はアメリカのシアトルで暮らしていた。周りに日系2世や3世の友人もいたが、特に意識したことはなかった。大学では留学生たちの世話をしている。日系の2世、3世の若者が自分のルーツを探し求めてやってくる。日本人の顔をしているが日本語が話せないので叱られるようなことがしばしばある。一番苦労をしている留学生は日系の人たちだろう。言葉の壁は仕事をしていく上では障害になるが、友人をつくる上では大きな壁ではない。信頼し理解しようとすれば乗り越えられる。積極的に人と会うことだ。


  村川教授 アメリカで生まれ育った人たちはやはりアメリカ人だ。そのことを忘れてはいけない。市民権を奪われて「ノー」の声を上げた人たちもアメリカ人として扱われなかったことへの怒りを発したわけだ。正直に「ノー」と意思表示できるのはアメリカ的であり、アメリカ民主主義に対する信頼の表れでもあろう。

(司会は大西英一前愛媛新聞論説委員長が担当。会場では八幡浜高校美術クラブの生徒たちが「北針」の絵馬を披露し彩りを添えてくれました=写真左=) 。

その日「父の日」 ジョイ・コガワさん  まだ見ぬ生家を訪問
 海外協会の記念講演に招かれたジョイ・コガワさんは講演の前日の6月20日、大洲市蔵川に残された父・故中山吾一氏の生家と、同市白滝にある中山家の墓を初めて訪問した。この日、コガワさんは、南海ラジオの番組にナマ出演した後、海外協会やカナダ友好協会の会員とともに松山から南予へ向かった。道中、この日が「父の日」だと知らされると、コガワさんは「偶然にしても、とても不思議な気がする」と感慨深げ。第一の訪問先は、先祖の墓所。墓は数年前にいとこの酒井妙子さんが蔵川から移して守っている。コガワさんは大勢の親戚に迎えられ墓前へ。手を合わせ、ひざまずいたかと思うと、しばし嗚咽の声をあげ、細い肩を何度も震わせた。=写真上=


 この後、父の生家が残る山間集落・蔵川へ。築後200年という生家は矢野マスヨさん方の離れとしてほぼ当時の姿をとどめていて、中に入ったコガワさんは大黒柱に触れ、そっと目を閉じるなどして、父のはるかなる旅路を回想していた。=写真下=

  吾一氏は戦前にカナダに移住、牧師として日系人の救済活動にあたった。
 

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