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平成23年 辛卯年を 考える  愛媛新聞社相談役 今井 瑠璃男

今井 瑠璃男氏
  愛媛新聞社の相談役、今井琉璃男氏は、冬至の朝には水垢離(みずごり)をし、ひとり机に向かう。そして、中国5千年の四書五経などをもとに新しい年の運気について思索を深める。今年はどのような見立てだったのでしょうか。今井氏の寄稿を得て、その論考の全文を紹介します。
 平成23(2011)年辛卯(しんぼう=かのと・う)はどう見るか。庚寅(こういん=かのえ・とら)を受け継いだ年だから当然前年の因果を受けて展開する。庚寅の教えは継続するが思い切って更新せよ、しかも同じ一国一家、一組織の中では手を取り合って協働せよ、さもなくばその報いを受けるとの教えだった。

■物騒な事象多い干支■
  辛は直針をかたどり辛い目に遭う、痛い憂き目に遭う、殺傷を伴うとの意を持つ。卯(ぼう)は兎にかたどらせているが萱の生い茂った荒野を意味し一方では肉を裂く=つまり殺す=の意もある。辛卯は物騒な事象の多い干支である。歴史年表の辛卯を遡ってみると戦国・江戸時代のこの年には農民や漁民など民衆の一揆・反乱が多発している。それと外国との交渉や関わり合いも多い。420年前の1591(天正19)年には豊臣秀吉がインド、フィリピンとの貿易や入貢をはかる一方で百姓の離村も多く朝鮮出兵を決定している。360年前の1651(慶安4)年には由比正雪の反乱や幕政批判、300年前の1711(正徳元)年は越後新発田や安房北条藩の農民一揆、240年前の1771(明和8)年には肥前唐津・丹波篠山・飛騨の農民が一揆、180年前1831(天保2)年には外国船がしきりに日本沿岸をうかがい周防・長門で一揆、120年前の1891(明治24)年にはロシア皇太子を襲った大津事件発生、自由・改進両党合併機運が起こり政治紛争絶えず外国では熱河反乱・チリ内乱などがあった。60年前(昭和26)年には朝鮮戦争でマッカーサー元帥が満州越境と原爆使用をトルーマン米大統領に要求したためクビになり後任リッジウェー中将就任、対日講和条約調印、公職追放解除などで大揺れした年だった。

■馬は逃げてもまた戻る■
 平成22年12月22日冬至の易では国運については「火山旅(かざんりょ)」と出た。山の上の火を見ながらいく孤独な旅人を表象する。昔、旅は大変だった。見知らぬ土地や海上をゆくのが旅であった。道遠く沈着にふるまい明知を失わぬことが肝要とさとしている。政治運は「坤為地(こんいち)」で母なる大地のように消極を守って積極をしのぐこと、遅れてもよい柔よく剛を制すでわが道を守れとの教え。方角でいうと中国・台湾・ベトナム・カンボジア・マレーシア・インドネシア・インド・ビルマを大切にという。もちろん米国は大地そのものだから大切の筆頭だ。経済運の易をみると政治運の易と同じ「坤為地」が出た。これは政治・経済が一体であると考えればよく判る。社会運は「火沢〓(かたくけい)」と出た。小女と中女が向かい合う―嫁と姑がにらみあうような形象で家庭の不和がすべての現象を引き起こす形。小さなことをこつこつ片付けるのがよい。馬は逃げても必ず帰ってくるので追うなかれとの訓え。
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■夜明け前の暗さ・寒さ■
  高島易断の井上象英師は、国運は「風天小畜(ふうてんしょうちく)」とみて風が吹くだけで万物は潤(うるお)すことはできぬという。率(ひき)いて帰るが吉とあり正道に立ち返れとの教えで行財政改革や法律改正案も今一度見直せとのこと。政治運では「火山旅」が出て私の見た国運と同じ卦であった。山焼きを想像させる内閣は不吉の暗示と手厳しい。経済運は「地沢臨(ちたくりん)」で青田に降り注ぐ雨を濁水として処理する、人材を生かし切れない指導者が多く、天地の変化に敏感に対応するのが経済発展の要素という。社会運は「雷山小過(らいざんしょうか)」で安易な小手先対策ばかりで雇用もままならず不安定さに包まれるとみる。
  算命学総本校高尾学館の中村嘉男校長は平成23年辛卯の年を荘子の教えを引用して夜明け直前の暗さ、寒さのうちにあり日本国運は裏鬼門通過中の現象に巻き込まれあと2年は続くという。外国との関係よりも国内に問題が多発し23年末から曙光が見え始めるとも語っている。卯には戸を押し開くという説文解字の解釈もあるからしばらくの辛抱。干支・易・算命学の教えを総合すると庚寅の年の積み残し、特に国内の諸問題小沢氏動向、民主党内不一致、外国関係では日米安保・朝鮮半島・中国内政問題からの外患転移、わが国の安全保障、災害と民生破綻対策が要注意となってくるだろう。(平成22年12月22日冬至)

地球の裏には「愛媛」がある 県国際交流課・矢野良太郎 南米県人会訪問記
矢野良太郎
国際交流課主任
  昨年の11月24日から12月2日まで、5泊9日の日程で南米の県人会を訪問しました。ブラジルに3日、アルゼンチンに2日半と、駆け足の訪問でしたが、県人会役員の方々や県費留学生・海外技術研修員OBなど多数の皆様の心温まる歓迎を受け、県人会の忘年会にも参加させていただくなど、心に残る交流を図ることができました。
  現地県人会では、1世から2世、3世への世代交代が進み、会の運営がますます難しくなってくると聞きます。ブラジルでは、在伯愛媛県人会の藤原会長が、留学生・研修員OBに対し、これからの県人会は、愛媛での経験を基に留学生・研修員OBが中心となって担い、愛媛で学ぶことのできる留学生、研修員の制度を続けていくためにも、県人会を盛り立てていって欲しいとの思いを話され、アルゼンチンでも、在亜愛媛県人会の光田元会長から、愛媛で生まれ育った自分は70年間ふるさとを離れていても、愛媛県人という意識を忘れたことがないが、2世、3世の母県に対する思いは、その地を訪問し、人々と交流することでしかつなぎとめられない、との話を伺いました。

在伯県人会の忘年会にも
参加して楽しいひととき
  世代交代が進むと、何かのきっかけなしでは、祖国やふるさととのつながり、日系人としての意識は薄れていくものだと感じました。そして、県が移住者の子弟を対象に行っている留学生や研修員の招聘制度は、単に学び、研修を受けるだけでなく、実際に愛媛で生活することで、愛媛県人、日系人としてのアイデンティティーを見出す貴重な機会であり、我々としてもしっかりと受け継いでいかなければならないと思いが強まりました。
  今回は、わずか職員2名での訪問にもかかわらず、私たちをあたたかく迎えてくださいました県人会の皆様に感謝申し上げますとともに、滞在中、何から何までお世話いただきました在伯愛媛県人会の藤原会長様、在亜愛媛県人会の大野会長様に心よりお礼申し上げます。
  【メモ】南米県人会員の子弟を対象とした県による県費留学生制度は1971年に、海外技術研修員制度は1977年にそれぞれ開始された。在外県人に対する支援策の一環。
  これまでに留学生はブラジルから33人、ペルー、パラグアイから各1人が来県。また、研修員としてはブラジル106人、アルゼンチン31人、ペルー34人、パラグアイ3人が愛媛を訪問した。
  これらの制度は、海外協会が1997年以来、在伯県人会との間で実施している研修生の相互派遣事業とあいまって人材交流の重要な役割を担っている。(この項、協会事務局)

  ○ … 退任する加戸知事のメッセージで本号を飾ることができた。知事には就任以来、協会名誉会長として協会の活動に何くれとなく心を砕いていただいた。ありがたいことだ。
○…先月20日、知事を交えての寄り合いがあり、出席者に協会事業の意義をアピールした。その翌朝、事務局には1通のファックスが届けられていた。知事から寄せられた個人加入の申込書だった。少なからず感動した。
○…協会の運営はいつになく厳しい。それでも、全国でも稀有な海外協会が28年間、灯をともし続けている。会員ともども「愛媛の誇り」としたい。(S)  (2010.11.15 海外協会報262号より)

活況を呈するブラジルの保険業界

  ブラジルの保険市場がチャンスを迎えている。保険会社はワールドカップや成長加速戦略などの巨大工事を支えるための準備をしている。そして、今まで縁がなかった多数のブラジル人を取り込もうとしている―。
  現地の月刊経済誌「実業のブラジル」(2010年5月号)は、こんな前書きで保険業界の活況を詳しく報じている。
  活況の背景として挙げるのが、今後6年間に15兆円もの投資を見込む大型インフラの整備。巨大プロジェクトには災害、事故、遅延など、それなりのリスクが伴う。しかし、訴訟が起きれば、一枚の保険証書が企業家、銀行、政府の後ろ盾となってくれる。
  政府が独占していた再保険の制度は08年に市場開放された。この影響も大きい。ぽっかり空いた領域には海外の数十社が参入し、しのぎを削る。
  急成長する大型工事向けの保険を後追いしようとするのが、健康、医療、生命などの個人向け保険。しかしながら、ブラジルには文化的障壁ともいえる気風がある。国民の多くが楽観的で、ばら色の将来を期待、「保険など無用の長物」と考えがちだ。
  このため、業界では少額で多様な「一品料理」を用意し、需要を喚起する。たとえば、自動車保険であれば、盗難、強盗、事故などの様々な不測の事態をカバーする高額保険よりも、適用範囲の狭い商品を競って売り出す。1日限りの救助サービスを提供する保険などがそれだ。また、医療保険ならかかった医療費だけをカバーする限定型の商品を売り出す。
  スイスの大手保険会社は「人が保険を考え始めるのは失う何かがあるとき。低所得者の消費が拡大して、ブラジルでは、より多数の人が失うものを持つようになってきている」とのコメントし、ブラジル的楽観主義は変化を遂げつつあると分析する。
  同国の中産階級は確実に増加しており、保険業の規模は6年後には3倍に膨らむとの見立てだ。

農畜産物輸出 世界3位に躍りだす

 広大な国土を活用し農業の近代化を進めるブラジル。邦字経済誌「実業のブラジル」2010年4月号は、2008年の同国の農畜産輸出が世界第3位になったことを詳しく報じ、「今後一層の飛躍が約束されながらも国内の輸送インフラが最大の支障」と分析している。
世界貿易機関( WTO ) が発表した国・地域別農畜産物輸出統計(金額ベース) によると、2001年のランキングは(1)米国(2)EU(3)カナダ(4)中国(5)オーストラリア(6)ブラジルだったが、2008年のブラジルはカナダ、中国、オーストラリアを上回り第3位に順位を上げている。急激に増加した品目は大豆、牛肉、鶏肉など。うち大豆は7年間で42億ドルから172億ドルへと4倍になった。
伝統的な輸出品目であるコーヒー、オレンジジュース、砂糖は依然トップの地位を維持。加えて、アルコール、牛肉、鶏肉、葉タバコなども世界1となっている。記事では特に触れていないが、これらブラジル農業を牽引してきたのは日本からの農業移民や技術移転にほかならない。日本の農業技術がセラード(熱帯草原) を一大穀倉地帯に変え、大豆の生産量を飛躍的に増大させたことはよく知られている。
  広い国土と太陽と水―。記事では、天然資源に恵まれるブラジル農業の大いなる可能性を強調する。01年から08年の輸出額の伸び率を比較すれば、ブラジルは18%で、EU 11・4%、米国8・4%、カナダ6・3%を凌駕する。しかも、耕作が拡大可能な面積は、環境保護規制によって制限されてきたとはいえ、日本の全耕地面積の10倍にあたる6千万ヘクタール。アジア諸国の需要の増大などを見越せば展望は明るい。問題は道路の整備や、鉄道・河川輸送のためのインフラ整備。農業のフロンティア拡大を進めるには膨大な投資を必要とする。これらが政権の急務としている。

アムール紀行(上) 海外協会理事  村上 空山

国境の収容所跡 荒涼と
6万余の精霊さ迷う

   松山は司馬遼太郎の「坂の上の雲」がテレビドラマに登場して盛り上がっている。
  この小説の子規庵の項に「庭のみえるガラス戸のそばに小石を七つ並べてある。…満鮮旅行をした彼の俳句のなかまが『升さん、この石は満州のアムール河の河原でひろうたものぞな』といって子規のために持ちかえってくれたものである。日本以外の土地にも旅行したくてたまらない子規にとって、この七つの小石は毎日病床からながめているだけで朔風の吹く曠野を想像することができるのである…」とある。
雑木林の中に墓石が一つ。ここには200名が眠っている
  又一節に「武蔵野のこがらし凌ぎ旅ゆきしむかしの笠を部屋にかけたり」と子規は詠んでいる。
  さすが子規さんや司馬さんはすごい。アムール川、朔風、曠野、こがらしの数語でシベリアの過酷さのキーワードとしている。
  平成二十一年八月、六度目のシベリア行きはこのアムール州でこの歌と同じ様に十五年もの愛用の笠をもち行脚姿でシベリア抑留死没者の慰霊の旅に出かけた。
  グラゴヴェンチェンスクは国境の街である。総延長四千五百キロ、ユーラシア大陸の北東部を貫きオホーツク海へ入るアムール川のこのあたりはロシア側はアムール州、中国側は黒龍江省の国境を成しており、終日のバス移動でも橋一つ見えない。川辺で子供たちは短い夏を楽しむようにはしゃいでいた。
  中国側の観光船が音楽を流し乍らゆったりと下っていった。古びた漁船が二、三隻漂っている。岸に破船が打捨てられていた。対岸の中国の黒河の街にそろそろネオンがつきはじめた。
  川一つへだてて両国の異差がはっきりと解る。黒河の街は急速な繁盛に気張っているように見えるが、ロシア側はそんな華やかさはお構いなし、実にゆったりとした街である。この川辺で小石を七つ拾った。子規さんの土産の小石は黒河側のものであったろう。
アムール川を挟み、手前がグラゴ
ヴェン チェンスク。対岸が中国
  「橇の鈴さえ寂しく響く 雪の曠野よ町の灯よ 一つ山越しゃ他国の星が 凍りつくような国境」 「故郷はなれてはるばる千里 なんで想いが届こうぞ 遠きあの空つくづく眺め 男泣きする宵もある」昭和初期こんな歌が流行した。昭和一代の方はこの時代の思い出があろう。国境の街とは何かしら哀愁の漂うものである。
  戦後満州から六十余万人の日本兵たちはこの川を渡って長い長い苦難の強制抑留の生活に入った。六万余の人が死亡した。くずれた荒涼とした収容所跡、ここで故郷を思い母や妻や子を思い、叫びつつ死んでいった若者たち、その現場を踏むとその無念さを「友よ安らかに眠れ」だけではすまぬ気がするのである。
  白樺の林がざわめいている。細い雨が落ちている。この一帯に日本兵たちが眠る。祖国へ帰れなかった魂が林の葉っぱを騒がしているのであろうか。立尽して涙することがしばしばである。
  私は慰霊の旅ごとに反射的に元気をもらって帰国するように思う。それは元気を保って来年も来てくれのシベリアの精霊たちのサインのように思えてならない。その魂に答えなければならないと思っている。私の墓参りが何時まで続けられるか、私はそれを人生の終末の課題としてい る。 (つづく)
アムール紀行(下) 海外協会理事  村上 空山

白樺林に埋葬碑一つ
語りかける老いた遺族

 「シベリアの凍てつく土地に とらわれし 我が軍人(いくさびと)も かく 過ごしけむ」
  平成十九年五月、天皇皇后両陛下が欧米五カ国歴訪中、ラトビア占領博物館を訪問された時の天皇のお歌である。
  バルト三国の独立運動にかけた市民の苦難の歴史を眼のあたりされ、同じ極寒のシベリアに抑留された軍人たちに思いをお寄せになられた。このお歌は老齢化したシベリア抑留に関連する人たちにとっては心の柱となった。
200 名が眠る白樺林の中の墓標
  ブラゴヴェンチェンスクの慰霊式。数百体が眠る奥深い白樺林で、ロープを張り日の丸、ロシア国旗、団旗、般若心経を吊るす。献花は菊がよい。清楚な白菊黄菊が日本調の雰囲気を整えてくれる。酒、タバコ、供物、香煙が一帯に漂う。読経が流れる、異国の丘の歌の合唱、そして遺児が語る「…戦後六十四年、ここへ来てやっと父上の体に触れたような気持ちです。幼時で別れ思い出はありませんが、この肉体はあなたの分離したものです。私も年をとりました。こんな所で亡くなったお父さん、どんなに日本へ帰りたかったでしょう。どんなに家族がいとおしかったでしょう。どんなに無念の思いで息絶えたでしょう…」。遺児の父との語らいは何時も皆共に涙する。シワキの慰霊地は林を拓いて碑が建っていたが、名板ははずされていた。遺族は語りかける。
  「…私は二十年余り前からこのシベリアのシワキ収容所についていろいろ調べました。
遺族や抑留体験者が祈る
 …今やっとこの地にやって来られました。こんな淋しい山の中で飢えと厳寒と過酷な労働の苦しみの中で命を落とされた叔父さん、無念だったでしょう。…私たち訪問団は再び悲惨な戦争を繰り返さない、世界平和の実現に努力することをお誓いします…」シベリアで没した人たちすべてが似通った環境であり、遺族すべてがまた似通った状況である。ガイドが落葉を集め後始末の焚き火をはじめた。無風の中一帯に煙が拡がった。
  静寂、鎮痛、墓地に精霊がたゆたうようであった。小さく燃ゆる炎のゆらぎは迎え火であり送り火でもあったシワキの無人の駅で昼にシベリア鉄道に乗車、翌朝ハバロフスク着までの混んだ車内では夫々の好みの飲みものを傾け乍ら今回の慰霊行の雑談で盛り上がる。
  墓参は同一箇所を巡ることが多いという。年齢のこと、交通宿泊のことを考えてのことだろう。
日の丸とロシア国旗、般若心経をささげる
 遠隔の困難の地は本部募集がない。ウクライナで長くドイツ人らと自動車整備などした抑留体験者は、彼の地にも数ヵ所墓地があるが慰霊団は行っていないという。かの地の精霊たちは故国からの墓参団を心待ちしているのではなかろうか。否、待ちに待っているだろう。
  私は松山でささやかなお堂で街の皆さんとの談話の会を持っている。若い生命をシベリアの曠野に没した人たちのことを語り伝えることは私の残り人生の宿題だと思っている。
  帰国して旅行トランクを開けた。新聞包みの中から濡れた地下足袋が出てきた。足袋裏のキザミにシベリアの赤土や葉っぱが詰まっていた。シベリアの香りそのままだった。あの慰霊式のときは雨が激しかった。白樺の林は全体が靄っていた。また慰霊式を思い出した。(おわり)
 
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むらかみ・くうさん) 昭和3年、東温市河之内生まれ。仏教大学卒。同大専攻科で浄土学を学ぶ。写経・念仏道場「空無我堂」主宰。県生涯学習推進講師。海外協会理事。著書に「生きる」「日々あらた」「人間まんだら」「人生いろいろ百話」「人は時の旅人なり」「蘇りの旅路」「天空の旅」など。
第6期訪伯研修 鈴木由美さんレポート

滋味不覚 大らかに 大地に生きる
胸熱くさせた県人たち

    第6回ブラジル研修生の団長、鈴木由美さん(内子町、主婦)が、4人の団員を代表し体験記を寄せてくれました。鈴木さんにとって、ブラジルは初めての訪問。見るもの聞くものすべてが感動的で、心の奥底が揺さぶられた、といいます。
  ブラジルに「心の接点」を持っていた鈴木さんは、予期せぬ事実に驚かされます。しかし人生の「こやし」となったようです。研修生を温かく受け入れてくださった在伯県人会の皆さんに感謝しつつ体験記を掲載します。 (事務局)


鈴木由美さん

 9月10日から30日までの20日間、私たち4人の一行は藤原会長を始めとする在伯愛媛県人会の皆様のお世話になりながら、サンパウロを中心にサントスやサンジョアキンなど各地を訪問し、工場見学や農場体験など、得難い経験をさせていただいた。県人の方々は様々な分野で活躍されていた。それらについてすべてを語ることは残念ながらできないが、勤勉さや粘り強さ、そして何より大らかな県民性が発揮されたのだろう。また彼らはあきれるほど元気だ。「お元気ですね」なんて生半可なものではない。数百キロもの距離を車で疾走する七十代や日本とブラジルを行き来する八十代などざらなのだ。広大な大地を耕し異文化の坩堝(るつぼ)の中で生き抜く中で培われた人間本来の力なのかもしれない。彼らが扱う大地はとにかく広大で、農業の規模は私の常識をことごとく覆してくれた。様々な農場を見学する中で、ブラジルでは農業に将来性が見出せると感じた。

 ■温和な眼差し、熱烈な歓迎■
  ブラジルにおけるりんご栽培への道は日本人が開拓したという。そして現在、主要産地の一つであるサンジョアキンでは、りんご生産の多くをみかん王国愛媛県人が手がけているそうである。だが在伯日本祭りでは、青森県人会がそのりんごを売ってしまうのだそうだ。釈然としない思いがなくもないが、それも愛媛県人がお人好しである表れなのだろ う。
  行く先々で私たちは大変な歓迎を受けた。私はあんなにも温かく熱烈なもてなしを受けたことがない。親子、いや孫程も年の離れた私たちに対して、朝早くから毎夜遅くまで熱心に案内してくださり、語りあい、時にピンガを酌み交わした。ピリリと辛く強烈な酔いをもたらすこの酒は、ブラジルの大地そのものの滋味だと思う。だが、私たちに向けられる彼らの温和な眼差しは一体どのようなものだったのか。それは、長い年月異郷の地で辛酸をなめ、苦闘の果てに現在の生活を築き上げた彼らの中に流れる日本人としての誇り、故郷愛媛に対する郷愁- 。私にはそう思えてならない。彼らの眼に映る私たちの先には愛媛の今があり、愛媛に吹く風の匂いを私たちから感じ取ろうとしていたのではないか。彼らのそんな心情に思いを馳せ、私は胸を熱くするのだ。
  ブラジルでの濃密な日々を反芻し、ブラジルと日本の架け橋になりたいと願う愛媛県人会の一人ひとりの思いを微力ながら受け止めたい、このレポートをしたためながら思いを新たにした。

お別れパーティーの後に

  ■種を蒔いた恩人はどこに■
  もしこの場において個人的な思いを吐露することが許されるならば- 私はできることならこの旅の最中、ブラジルへ興味を抱くきっかけとなった恩人に会い、一言お礼をと願っていた。その方は日本人街で書店を経営しており、何の面識もない私に6年前、はるばるブラジルから書類を郵送してくださっていた。それは日本に対する熱い想いが文面からほとばしる手作りの図書新聞で、私は一度読んだだけで引き込まれ、その作者である遠い遠い異国の日本人にいつの日か会いたいという思いを募らせていた。
  だがその願いは、わずかな時間の差で叶わなかった。彼は一昨年、63歳の若さで世を去っていた事が判明したからだ。
  本当に残念なことだが、私は彼に心から感謝している。彼の存在がなかったならば、私がかの国へ目を向けることも実際に行くことも生涯なかったであろう。彼がブラジルで蒔いた種子は故郷日本で、私のブラジルへの関心となってみごとに発芽した。私は今後ともその若芽を育て、ブラジルの木の如く大樹にしてゆきたい。
  最後になりますが、私たち4人に研修の機会を与えてくださった、海外協会の会員の皆様、特に出発から帰国まで準備に奔走された協会事務局の方々に心よりお礼申し上げます。

ブラジル移住を支えた花嫁たち

1700人? 単身海を渡る
まだ見る夫の写真抱いて

海外協会前理事 宮内 敏行
   「花嫁移民」という言葉が盛んに使われ始めたのは第二次世界大戦後、ブラジル移住が昭和27年に再開された後4、5年ほどたってからだった。それまで多くの若者が大きな夢と希望を持ち、南米大陸に新天地を求めて単身日本を後にしたが、これは男性に限られたことだった。女性の単独移住は認められておらず、若い女性が海外移住するには家族の一員として渡るほかはなかった。
 こうした状況の中で、海外に雄飛したいという若い女性たちの願いをかなえてやりたい、またコチア青年(戦後の移住事業で渡伯した独身青年) に花嫁を取らせたいと、東大教授だった小南清・みよ子ご夫妻(いずれも故人) が私財を投じ、神奈川県茅ヶ崎市に「海外移住婦人ホーム(後の国際女子研修センター) 」を設立、海外移住を希望する女性の研修に尽くされた。研修内容は、海外移住の心構えから、現地の農業、文化、生活、育児、保健衛生の状況、そして花嫁修業に関することまで多岐にわたり、海外在住の青年たちとの交流を通じ写真お見合いなどで多くの花嫁を海外に送り出した。こうした活動でミヨ子さんは今でも「移住の花嫁の母」と慕われ讃えられている。
 海を渡った花嫁たちの数はいまだ定かではないが、「ブラジルききょう会」の大島純子会長によると、同ホーム関係の渡伯花嫁は約370人。このほかJICA関係で把握している人数などを加えると、ブラジル移住花嫁は1700人に上ると言われている。今年は、最初の花嫁を送り出してちょうど半世紀の節目を迎え、ブラジルでは記念行事も行わ れているようだ。
  東京五輪の昭和39年、「海外移住婦人ホーム」から花嫁移住として渡伯し、今はサンパウロ市に住む白石博子さん( 旧姓・佐藤) は、私の大学の同級生だ。先日、日本に一時帰国した際にも再会することができ、当時の苦労話やその後の生活に関して詳しく話を聞くことができた。
サンパウロ在住の白石さん一家。博子さん(右端、旧姓佐藤)は1964年、花嫁移民として渡伯した。その左が筆者
  彼女は写真でお見合いをし、夫となる人の両親や兄弟らと日本で面接。仮祝言を挙げて入籍後、移民船に単身乗り込み、まだ見ぬ夫が待つブラジルへ向かった。しかし、船旅は40日余を要した。当初思い描いていた夢や期待も時にはしぼみ、不安が付きまとったこともあった。ただ、幸いなことに彼女は、夫との40余通に及ぶ文通を重ねて相互理解を深めていたため、日ごと「早くブラジルに着きたい」との希望が膨らんでいったという。彼女は港で出迎えの夫にすぐに出会うことができたが、一緒に渡伯した仲間の中には写真片手に船のデッキを右往左往し、ようやく夫と巡り合うことができた人もいたという。このほか、移住になじめず、夢破れてすぐに帰国する者や、他の南米諸国に移住先を変える者もあったらしい。
 白石さんのほかにも、私は、ブラジル訪問当時、何人かの移住花嫁とお会いしたことがある。彼女たちは概して、当時としては高学歴者で、経済的にも比較的安定した家庭に育った人が多かった。移住の動機を尋ねてみると(1)農業の経験はなかったが広大な大地に魅力を感じ、大規模農業を実現してみたかった(2)ブラジルは人種差別がなく大らかな国柄で、同化して努力すれば必ず報われるという強い信念があった(3)ブラジルで評価されている先人たちのように自分のエネルギーを発揮し何らかの形で貢献してみたかった丨などの答えが返ってきた。彼女たちからは、思い出をいっぱいつくってブラジルの土になりたい、という強い思いが感じ取れた。仲間内では懇親会などが活発に開かれ、互いに強い絆で結ばれている、という。
 白石さんは、夫を2年前に亡くしたが、子や孫に囲まれ幸せな毎日を送っている。彼女のように花嫁移住で渡伯し夫を助け家族を守り開拓営農を定着発展させた女性の役割とその努力を見逃してはならない。
日系コロニアを下支えし、懸命に生き抜いてきた彼女たちに敬意を表するとともに、幸多かれと祈りたい。
ブラジル日系社会の変化
進行する「日本離れ」
交流事業担う協会の大切さ
 ブラジル移民が始まって昨年で100年となった。アマゾン地方では今年、日系人による入植が80周年を迎える。移民は長い歴史の中では、第二次世界大戦中に一時中断されたが、昭和27年に再開された。アマゾン地方での開拓移住、サンパウロ州を中心とするコーヒー農園でのコロノ契約移住(呼び寄せ)などが主なものだ。先ごろ私は、50年ぶりにブラジル国内の移住地を巡り、懐かしい人々との再会を果たす一方、コロニア(日系人集落)の変化や発展をこの目で確かめることができた。
 
海外協会理事
  宮内 敏行
(松山市在住)
  かつてアマゾン地方の入植地では、日本人同士のコミュニティーであるコロニアが形成されていた。そこに家を建て、日本の風習やしきたり、言語、衣食住まで日本の文化を そのまま持ち込んだ独自の「ムラ」社会をつくり上げていた。日本流の暮らしが根付き、隣近所での助け合いなど麗しい日本の習慣が、そこにはあった。入植地はそもそも原生林に覆われ、斧や鍬で切り開き、自給自足の生活を強いられた。水や電気、道路などの社会インフラもなく、コロニアで日本人同士が相互扶助しなければ生きていけなかったわけだ。
  しかし、このほど訪れた多くのコロニアでは大きな変化が見受けられた。社会インフラが完備され、便利で快適な生活が可能な集落に生まれ変わっている。また、日系人の世代交代や帰化の進行、農園労働者であったブラジル人のコロニアへの定住など、「マチ化」「混住化」が進んでいた。この結果、コロニアは以前の日本的な「ムラ」社会から脱却し、他民族と共存する複合化社会へと大きく変わりつつある。また、農業に専念していた日系家族も、子弟の農業離れや出稼ぎなどが進む中で、都市への移転も目立ち、コロニア内での日本人の空洞化が見られるようになっていた。
  移住者の考え方は、地域の溶け込み、そこに住むみんなで共助、協働することを第一に置いている。例えば、現地の日本人会が中心となって、「祭り」や「盆踊り」などのイベントを開催し、日本の伝統文化の継承と住民の親睦交流に力を注いできた。しかし、既に日系三世、四世の時代となり、母国・日本への無関心化が進み、まったく疎遠な状態になるのではないかと心配する日系人が増えている。
  こうしたとき 、日本人会や各県単位の県人会活動、そして母国・日本でのサポート活動は、重要な意味を持つ。
  愛媛県では昭和58年、有職者ら民間の手で「愛媛県海外協会」が創立された。 これまで移住者と本県を結ぶ拠点組織として、情報交換、派遣訪問活動などを通じて相互理解に大きな役割を果たしてきた。特に青少年相互派遣研修では、愛媛出身者の二~三世が本県を訪れ、東・中・南予の産業や文化、芸能などを視察し、県民と交流することで、日本や愛媛に対する新たな認識を持ってもらえている。
  また平成20年には在伯愛媛県人会(藤原利貞会長)が移住100周年記念事業の一環として、記念誌「ブラジル移住100年の歩み」を発刊した。入植の節目となる年に開催する記念式典などとあわせ、移住の歴史を 風化させることなく後世に伝えるために意義深いものだ。ブラジル日系人社会に「日本離れ」が進展しつつある今こそ、愛媛県海外協会がブラジル愛媛県人会との連携をさらに強化し、母国、そしてふるさと愛媛での大きな受け皿としての役割を一層担ってゆかねばならないと思う。
 
南アフリカとサッカー
希望のシンボルW杯
解放運動から虹の国家建設へ
海外協会理事   宮内 敏行
 サッカーワールドカップが2010年6月に南アフリカで開かれる。
  先日、ケープ州のポートエリザベスでは「ネルソン・マンデラ・ベイスタジアム」が、またヨハネスブルグでは「サッカーシティ競技場」が建設されている様子がレポートされていた。
  2006年、私が南アへ旅した当時もいいサッカー場があちこちにあり、休日には観客の歓声があがっていた。
  黒人居住区の広場や通りの小路で少年たちが声高に喜々として破れボールを追いかけ廻っていた。エネルギーに満 ちた風土、パワー溢れる人たちを見て、まさにこの国はサッカーが一番似合いのスポーツだと思った。
  ネルソン・マンデラはケープタウン沖のロベン島監獄で20年間、次いで市内のポルスモア刑務所で7年間を過ごした。
ロベンはペンギンの意であるが、政治犯を収容し一度入ったら出られない「暗黒の島」といわれた。 彼はアパルトヘイトの廃止、黒人の地位向上を訴え27年間の獄中生活でその信念を貫き抜いた。後日彼は大統領となり、 この監獄は閉鎖され、今は世界遺産となって観光客も訪れている。
  当時の収容者は当局と長い交渉の末、スポーツをすることを認めさせた。サッカーは唯一の生き抜く希望であった。 所内に「マカナサッカー協会」ができ、彼らはチームを作り毎週末にはリーグ戦を行った。 
  マンデラさんもプレーしたであろう、その名を冠したスタジアムでワールドカップが繰り広げられる。 黒人解放運動の源の地ケープ州の海浜の街から世界へ華々しく発信されるであろう。
  私は一枚の切手からこの人を知った。「スティーブ・ビコ」である。彼は黒人意識運動を高校学生活動か ら手がけた。勇気の塊のような活動家で、強力な武器は言論と信念であった。至誠が溢れユーモア感覚を たっぷり持ち、その言論は人を必ず納得させた。私は後日、彼の伝記や記録をたどった時、もし生きていれ ばオバマ大統領に匹敵するであろう、すごい人物であると思った。彼の伝記映画「遠い夜明け」は世界に 反響し黒人解放運動の曙光となった。
  活動と移動の禁止で郷里のキングウィリアムズタウンから地区外へ出ることを禁ぜられていたが、学生集会に行く途中網にかかり、 ポートエリザベスの警察の独房に放置され、最後は治療のためと千キロメートルも離れたプレトリアへ移送されて死亡する。
ハンストと公表されたが、拷問死であった。1977年9月12日。わずか30歳であった。
  彼の膨大な論文や裁判陳述の中でスポーツにもふれている。「スポーツ競技の世界で黒人、白人が一緒になれば他の世界でも 考えざるを得ないでしょう。映画館、劇場、ダンス、政治的権利についても考えねばなりません。これは雪だるま式に大きく なってゆく効果があります…歴史は必然的な目標を目指して必然的な方向に動いていくものと私は信じています…」 
  スポーツによって差別を解消してゆくことを語っている。スポーツは自由平等の象徴である。路地のサッカー少年たちは、 夢であるワールドカップで世界の一流選手が来ることを心待ちしているであろう。いま、南ア共和国は白人も黒人も調和して ゆく「虹の国家」を理想に掲げている。 今回のワールドカップは特に人類に意義をもたらすと同時に、地下の スティーブ・ビコに対する大いなる手向けでもあろう。南アの未来は明るい。栄光あれ、と願う。
スティーブ・ビコの切手
ネルソン・マンデラ・スクエアーにある
マンデラ像(ヨハネスブルグ)
ペティ族の女性(ケープ州)
ブラジルの群像(上)
海外協会理事 村山 空山(松山市在住)
「この大地に夢を」 移住百年 不屈の精神脈々と
サントス海岸に建つ日本
移民ブラジル上陸記念碑
  サントスの海は濃紺だった。サントス港はコーヒーの輸出で発展したブラジル最大の貿易港である。埠頭に各国のコンテナが山積みされていた。2、3隻のフェリーが水尾を引いて外洋へ消えて行った。
  第1回のブラジル移民笠戸丸は愛媛県人21名を含む781人を乗せて神戸を出港、51日の航海をして1908年6月18日午前9時半このサントスに入港した。日本ブラジル移民の第一歩の地である。彼等は移民収容所で数日間の研修を受けて各地へ散って行った。
  1998年、ブラジル日本都道府県人会連合会が移民90周年を記念してこの地に「日本移民ブラジル上陸記念碑」を建立した。副碑に「この大地に夢を」とある。夫婦と少年が肩を寄せ合い父親が彼方の夢の大地を指さしている像である。彼等にとって指先の彼方は希望の大地であったのだろうか。
  サントスのメイン通りに青いドームを持つコロニアル風の豪華な建物「旧コーヒー取引所」がある。今はコーヒー博物館になり1930年頃の活気ある港や市街の賑わいなどのセピア色の写真が掲っている。50キロのコーヒー豆袋を荷役している男たち、コーヒー園で働く日系移民の少女たち、日の丸の小旗をふりながら列車の窓から顔を出して運ばれてゆく移民たち、この人たちはその後いかなる生涯が開けていったのだろう。 
  今回ブラジル移民100周年、愛媛県人会55周年の記念式典にあわせて「ブラジル愛媛県人100年の歩み」の労作が出版された。 そこには初期移民たちの苦闘の歴史が刻まれていた。生命をかけて未知の大地に立ち向かった人間ドラマが満載されていた。ハングリー精神のもとで背水の陣で柳行李一つを携えて渡った日本人の姿があった。
  ブラジル移民100周年、その間営々と受け継がれたものは日本的な努力、根性、我慢、不屈の精神であった。
 今回の祝典で出会った人たちは皆その精神的後継者であった。ブラジルの大地はその日本人たちの「やる気」に応えてくれたのであろう。そしてその人たちはブラジル社会の中で確固たる地位を築いていた。
  2003年10月、愛媛県人会50周年記念に出席した時は西村定栄会長だった。会長を中心に幹部方の団結、打てば響くような先回りの対応、そして律儀で、心こもる歓待に一度の訪伯で県人会の皆さんに心を とらわれてしまった感じであった。そして今回、藤原利貞新会長や皆さん方に再訪の約束を果たすことができた。当時握手して別れた初代会長中矢一郎さんは他界されて残念であった。
  この5年の間に我が家に海外協会の研修生のヘンリー中矢、フーベンス藤崎がホームステイしてくれた。貧しい食卓を囲んで談笑した2人の好青年。素直で素朴、危うげのない一途な生き方にまぶしい程の輝きがあった。この2人も待っていてくれた。
  出会った県人会の人たちは皆半端じゃない、あらゆる試練に耐え抜いて今日の成果を得た人たちだった。今の日本人は100年前にサントスへ第一歩を踏み入れた先人の気力、気概を忘れてはならない。ブラジルにかけた群像の熱い思いを再認識することが、移民100年の意義でもあろうと思うのである。

ブラジルの群像(中)
海外協会理事 村山 空山
強烈個性、傑出した活躍
 2009年元旦、恒例の天皇陛下のお歌五首が発表された。その一つ「日本ブラジル交流年・日本人ブラジル移住100周年にちなみ群馬県を訪問」のお題で「祖父の国に働くブラジルの人々の幸(さち)を願ひて群馬県訪ふ」であった。陛下のご関心の程が偲ばれる。
  このお歌で随分と勇気付けられた人たちも多いだろう。
  1月15日の宮中の歌会始の入選歌でブラジルの筒井惇さんは、「エタノール生産工場中(なか)にして甘蔗畑の四方(よも)に伸びゆく」と詠んだ。今回の訪問団は終日果てしない甘蔗畑を通りその工場を見学した。また昨年の入選歌にブラジルの渡辺光さんは「晩秋の牧場の地平に野火走り一千頭の牛追はれくる」があった。共にその情景が鮮やかに蘇る。
  今回、官民合同訪伯団35名はサンパウロ郊外の「ブラジル日本移民開拓先没者慰霊碑」に詣でた。第1回移民船笠戸丸は100年前の6月18日サントスへ入港、この日を「移民の日」として毎年慰霊祭が行われている。高浜団長以下団員一人ひとりが白菊を献花した。読経といろは歌の一句を捧げた。「色は匂えど散りぬるをわが世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢みし酔ひもせず」はブラジル大地に眠る諸霊が祖国を懐かしんでくれたであろうか。
  今回の式典に合わせて記念出版された「ブラジル愛媛県人100年の歩み」はまさに移民100年を語る大労作であった。笠戸丸移民から多くの県民先達たちの歴程が盛られている。そしてこの100年、祖先たちの開拓魂が今日に受け継がれていた。
  訪伯団は短い滞在でもブラジル県人会の周到な計画と藤原会長の誠意あふれる配慮と見事な采配によって現地の実情を知り多くの人たちとのすばらしい出会いをもった。
  これらの群像たちは強烈な個性を持ちこの大地にじっくりと根を下ろしているのである。ブラジルの大地は日本ではとても育たないような人間性が育つのであろうか。
  古武士の風格で淡々とした言動で人を包みこみ、5年の空白を埋めるように再会を喜び、己を無にして連日歓待案内してくれた西村さん。花を愛すると同じように人を愛し、自分を傍らにおいて農園一族をあげて訪問団に尽力してくれた大規模花キ栽培の藤原さん。サクラ醤油では社長以下の役員全員で工場案内をしてくれた。数年前わが家へホームステイしたヘンリー中矢さんとの再会も嬉しいものであった。ここまでになったのは皆様のおかげと感謝と謙虚さがさくらの社風であった。パトカー2台の先導で井上農場に招待された。大きなジャガイモのホイル焼きや焼肉の美味さが格別の昼食だった。一族あげての温かい接待、長い日時をかけて準備なされたことだろう。訪問団は大いに開放感を味わった。私流では「柿の益田さん」だが、案内してくれた花の市場、果物の市場の広大さと喧噪さ、そこにはブラジルの原色と土の香りが満ちみちていた。フーベンス藤崎さんとは3年ぶりの出会いだった。肩を抱き合い彼の広大な牧場の話を再び聞くことができた。其の他すごい多くの人たちがひかえている…。
  今回、ブラジル社会で信頼をうける日系社会の活動を目のあたりにし、また移民100年の間の愛媛県人会員の傑出した活躍に驚嘆し誇りに思う。 今日の日本は閉塞感、固定観念が漂っている。このブラジルを見ればまさに眼からウロコがとれるだろうは思いすぎだろうか。

さくら醤油の見学 井上農場にてランチタイム
ブラジルの群像(下)
海外協会理事 村山 空山
至誠、勤労、助け合い 日本の伝統精神 大地に息づく
 先号に天皇陛下のお歌「父祖の国に働くブラジルの人々の幸(さち)を願ひて群馬県訪ふ」を紹介した。
その群馬県高崎市の一高校は経済的に苦しい日系ブラジル人生徒の学費延納の容認措置をして勉学が続行できるようした、という。現在の不況で日系ブラジル人が失職して帰国が急増しているという。父祖の国にあこがれ働きながら学ぶ若者たちが夢破れて中途帰国では悲しすぎる。
 さて私の今年の年賀状は丑年に因んでブラジルの牧場をイメージしたもので、以前にフーベンス藤崎さんにとてつもない大牧場の話を聞いて興味を持ったものである。一万数千頭の牛、広い所へ少数しか放牧しないという。画のように群れてはいないだろう。
  賛には「天無私」と入れた。大自然は万物万人に平等である。生きとし生けるものに公平無私である。それがブラジルの天地の実感であった。まさに自然と人生のバランスの学習の現場であった。 それはブラジル各地で生涯を農に打ち込んだ人たちのいぶし銀のような生き様と、その間の至誠や勤労に裏打ちされ自然と培養された人間の美しさや、充実した人たちとの出会いからである。
  花栽培の藤原さんは来日中の一日、県の案内で県下の代表的農園めぐりをした。西予市宇和町の蘭農場では技師たちと蘭について特に専門的な話をしていた。わが憶測ではあるがやがて新種の胡蝶蘭が愛媛ゆかりの名前でブラジル全土に拡がってゆく夢のようなことが実現するであろう気配を感じた。
  井上さんは馬鈴薯の大生産者である。かつてご縁あって拙著に「青天独歩」をサインして送った。今回、井上邸の書斎にその本を見出して赤面する思いであった。井上さんはブラジルの天空と大地と共に生き、まさに生命を大地に密着して燃焼した境涯である。その堂々たる底光りする生命の価値に対して何気なく一句したことの軽率ささえ感じたのである。
  五年前に出会った西村さんはその空白がないように両腕で私を受け止めてくれた。 試行錯誤の末トマト栽培の成功で今日があるという。ブラジルの天地に根性を据えて己をぶっつけてこそ自然は応えてくれるのであろう。そしてその歳月こそが彼の人に何にもおかされない古武士(ふるつわもの)のような風格を自然と備えてくれるのであろう。
  柿の益田さん、訪伯された天皇皇后両陛下に自作の柿を召し上がって頂いた柿作りの名人である。今日でも果樹の一研究者の様な真摯な日々である。自然と人為の和合がいい果実を生むのだから千変万化で農には究極はないという。花と果実の市場を案内してもらっている間にも四方から声がかかり呼び止められる。信頼を一身にうけている背をみつつの市場見学であった。
  さて今は亡き県人会初代会長の中矢一郎さんの思い出は深く重い。「在伯県人は愛媛を誇りに思いその名をけがさぬように頑張ってきている。今の日本は経済第一でやさしさや思いやり、温かみや助け合いの心が何処かへ消えている。誠の日本の美しい伝統精神はむしろブラジル日系人にあるように思う。これは遠くから見ているとよく解る」と。
  ブラジルの現状を見ることは日本を考えることであった。
  先般ブラジル女子留学生三名の送別会があった。みんな輝いている娘さんたちであった。彼女たちの帰国後の健闘と幸せを念ずる。(おわり)

空山の今年の賀状 井上邸でのランチタイムのひととき
 

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